
中国の大手テック企業・蚂蚁(アリババ傘下)が2025年下半期に発表したAIチャットアシスタント「灵光(リンガング)」は、情報提示を極力シンプルにすることで、ユーザー体験の新たな方向性を示しています。
本稿では、同製品が採用した「減算的」デザイン哲学と、現在の中国AI市場における位置付けを詳しく解説します。
背景と課題
近年、AIチャットボットは回答の長さや機能の多様性で競争を繰り広げています。特に中国では、生成AIの急速な普及に伴い、検索連携、コード生成、マルチターン推論といった高度機能が標準装備と化しています。
加算主義と減算主義
多くのプロダクトは「機能を足す」ことで価値を高めようとしますが、実際にユーザーが感動するのは、必要な情報を最小限のステップで得られる体験です。iPodのクリックホイールやGoogleのシンプルな検索画面に代表されるように、シンプルさは長年にわたって高評価を受けてきました。
「灵光」の減算的アプローチ
「灵光」は、AIの高度機能は裏側に保持しつつ、ユーザーインターフェース上ではそれらを露出させません。具体的には、モデル選択やネット接続スイッチ、深層思考モードといった設定項目を非表示にし、質問に対して直接的かつ構造化された回答を提示します。
回答はカード形式やインタラクティブなグラフで視覚的に整理され、情報の階層が一目で把握できるよう設計されています。たとえば「子どもの保険を選びたい」という問い合わせに対しては、予算・年齢・保障タイプ別に要点をまとめ、余計なリンクや長文の解説は省かれます。
情報の「先要約・後展開」
ユーザーが求めるのは結論と次のアクションです。「灵光」はまず要点をカードにまとめ、必要に応じてテキストや図表で詳細を展開します。体検結果の要約や出国手続きのチェックリスト作成など、日常的なシーンでの情報取得が格段に楽になります。
中国AI市場における位置付け
中国では、百度、阿里巴巴、字节跳动などが大規模言語モデル(LLM)を次々にリリースしています。蚂蚁が提供する「百灵大模型」は、2025年下半期にリリースされた最先端モデルであり、検索連携やコード生成といった機能を備えています。
しかし「灵光」は、これらの機能をユーザーが意識しない形で活用し、情報過多のリスクを低減します。これは、AIを「情報の編集者」と位置付け、過剰な出力を抑えて本質的価値を届けるという新たな戦略です。
デザインとユーザー層
シンプルさを追求した結果、情報の深さは限定的です。高度な分析や詳細な背景知識が必要なケースでは、従来型の長文出力AIに劣りますが、日常的な質問や意思決定支援においては、認知負荷を大幅に削減できる点が評価されています。
この設計は、6歳の子どもから80歳代の高齢者まで、幅広い年齢層が直感的に操作できることを意図しています。実際、子ども向けに「三星堆金面具」の3Dモデルを回転させて見せる機能や、シニア向けに天気情報をグラフと服装アドバイスで提示するケースが報告されています。
過去のインターネット製品との類似点
1990年代後半から2000年代初頭にかけて、GmailやAirbnb、Google検索といったサービスは「シンプルさ」を武器に急成長しました。当時は広告やポップアップが少なく、ユーザーは必要な情報だけを迅速に取得できました。
「灵光」のデザイン哲学は、こうした初期インターネットの「低門槛・高効率」モデルを再評価したものと言えるでしょう。現在の中国市場では、流量確保やエンゲージメント向上のために機能を増やす傾向が強まっていますが、同時に情報過多への疲労感も顕在化しています。
情報過多と注意力の乏しさ
認知科学者ハーバート・サイモンが指摘したように、情報が豊富になるほど注意力は希薄になります。AIが大量のテキストを出力するほど、ユーザーはそれを消化するコストが増大します。「灵光」は情報を「消化」した上で提示することで、注意資源の節約を実現しています。
今後の展望と課題
「灵光」のような減算的AIは、ユーザー体験の差別化要因として注目されていますが、以下の課題も残ります。
- 高度な分析や専門的なレポートが必要なビジネスシーンでの適用範囲の限定。
- 裏で動作する高度機能が不透明であるため、信頼性や説明責任に関する議論。
- 中国国内の規制やデータプライバシー基準に合わせた運用の柔軟性。
これらを克服できれば、シンプルさと高度機能の両立が可能となり、AIが情報過多の時代における「情報の編集者」として広く受容されるでしょう。
まとめ
「灵光」は、AIが提供できる高度機能を隠蔽し、ユーザーが求める情報だけをシンプルに提示するという新しいプロダクトロジックを示しました。中国のAI市場が機能の加算競争に走る中で、減算的デザインが差別化の鍵になる可能性は大いにあります。今後、同様のアプローチを採用したサービスが増えることで、ユーザーは情報過多から解放され、AIとの対話がより快適になることが期待されます。